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年末年初・軽トレッキング

『恭賀新年
今年も駄文をつづります。
物忘れのひどい私自身の記録ですから、
暇つぶしにお訪ねくださると嬉しいです』

9才の孫娘に、光城山の軽登山を勧めてみる。
決め台詞は「初心者の登山訓練の小さな山だよん」

年末年始は温かったので、日常の冬装束にスニーカー、
リュックサックにお茶・行動食・タオル・予備の薄手カーディガンを詰めて
朝8時半に出発。

中でも”行動食”の響きが気に入ったようで元気に歩く。
途中、雪景色の北アルプスを自分のカメラにおさめている。

いっちょ前に指4本で風景を切り取るしぐさをする。
撮影すれば、みんな同じアングルになるのだが一応褒めておく。

年末は頂上まで

年初は父親が来る日だったので、気になるのか中間点で引き返す。
前回スニーカーがぬかるみで汚れたからか、歩きにくかったのか、
長靴姿のおじさんを見たからか長靴で登っている

木綿の下着を着ているので汗が気がかりだが、帰宅後も風はひかなかった。
下界も雪がなくつまらなかったと思うが、よい経験ができた。
ヒカルジョウヤマは長いので「ヒカルくんへ登ろう」となった。

次回の来宅時にも登るとは限らないけど・・・

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八ケ岳高原

12月17日、予約していたコンサートへ。
むか~し行ったことがある「日本で一番高いJR野辺山駅」と、八ケ岳連峰の裾野に広がる高原が
八ケ岳高原。標高1100m。
その中にある八ケ岳高原音楽堂です。
サイトから拝借の全景

サイトから拝借の堂内

16:30分からの演奏会です。

見上げると

古澤巌さんとベルリンフィルのメンバー弦楽五重奏団との共演。
曲目の中にヴィヴァルディの『四季』から「秋」と「冬」があり、つられて来てしまいました。

私には高すぎる宿泊施設八ヶ岳高原ロッジ主催のコンサートでしたが、
宿は野辺山駅から車で10分ほどの「八ヶ岳グレイスホテル」
もちろん駅を基点に送迎してくれます。

ここは全室が八ケ岳を真正面に見る細長いカーブのホテルでした。
翌朝の窓から

温泉ではないが大浴場があり、朝食もメニューたっぷりで快適でした。

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ひょんな縁から登山再開

高い山を断念し白内障をクリア後、初登山は光城山へトレッキング。
10月中旬だったかな?

途中で出会った男性が「ここで出会った方々で自然に輪が出来、Jさんを中心にランダムに楽しむ
山行チームがあります」と。
「下山後の駐車場に、〇〇岳の標高がナンバーの車があればJさんはまだここにいますよ」とも。

わ~ぉ、素敵ですねぇ

ちょっとお待ちしていたら会えました。
彼は毎日光城山を歩き、時々集合できたメンバーとトレッキングを楽しむリーダーさんです。
御年81才ですが、経験談を伺うと若い頃から北アルプスへは何度も来ておられた大ベテランでした。

電話番号を交換して11月の山行をお知らせいただいたのが
11月7日の『燕岳日帰り登山』でした

あらら、いきなり。これは私には無理ちゃうかなー。
ゆっくり登りますから大丈夫!と。

たしかに大丈夫でした。
その日揃ったメンバーは、きっと私に合わせてくださったのだと思います。
まず筋肉を柔らかくするためにストレッチを欠かさずに、とアドバイスを頂き、
毎日励んでおります。ハイ

来年を期待しよう。

付録
12月12日の光城山から
有明山

爺ケ岳と鹿島槍

安曇平と常念岳

ずずっとズーム常念岳

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田部井淳子さんお別れの会

先日亡くなった田部井淳子さんの「お別れの会」が
12月18日14時半から16時、東京世田谷区の昭和女子大(出身校)のホールにて。

私は62才から登山を始め、高い山をやめても何かにつけ田部井さんをお手本にしている。
登山技術だけでなく、危機管理や危険に際して咄嗟の判断、楽しく登山する工夫、
山小屋での快適な過ごし方など。

白内障治療のお蔭で視力が回復したので、力量に合った登山を続けよう。
少しくらいしんどくても里山を歩けば元気になる・・・こんな老後を過ごそうと思う。

高校の同級生が、来年安曇野にやってくる約束が出来ている。
そうだ、木曽駒ヶ岳に登り「チョウノスケソウ」を見て、田部井さんを偲びたい。

もし可能なら富士山に登ろう。見るだけの山のつもりだったけど・・・
田部井さんが「東北の高校生を富士山に登らせよう」2012年から毎夏、東日本大震災の被災地福島の高校生を富士山の山頂に連れて行くという活動。
今年7月に彼らを見送られた最後の登山、せめて富士山7合目まででも。
指南書はある

本の中に懐かしい記事を見つける。
ネパールのエヴェレスト街道で見た「HAT-Jりんごプロジェクト」のリンゴの花。

農家のおじさんが「アップル」と嬉しそうに教えてくれました。

田部井さんの飛び切りの笑顔は勇気を下さる。

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緊急渡印・さようなら

ホテルで待機中に、
バラナシ在住の女性から「23日午後3時にお亡くなられました」とメールが来た。
そして
「乗る飛行機がキャンセルになったことが、なんだか必然的だったように思えます」とも。

ご臨終には立ち会えませんでしたが、インドの空を見上げてお見送りができました。

そして
24日の葬送の様子も知らせてくれました。
「午前中プージャーには沢山の人が集まりました。
みんなの見送りの中、花で飾り付けられたトラックに乗ってサルナートなどを巡り、
火葬場へ向かいました。50人以上の人達が燃えていくのを最後まで見守りました。
ご住職の身体はすっかり燃え尽くされてただ真っ白な灰だけが残っているだけでした」

帰国後
24日に活動仲間だった方からメールをいただきました。
「地方紙に訃報記事が掲載された」と、現地の知人からの転送メールでした。

「地元紙が訃報記事を書くほどの存在感だったのだなとあらためて思っています」とも。

私も同じ思いです。
(12/13下記一部訂正と補足)
曹洞宗の僧侶からインドへ渡り40数年。
小さいながらお寺を建て、貧しい子供たちの日曜学校とお菓子やパンの施食行。
寄付を集めながら宗教・身分にかかわらず、寺子屋のような無料中学校を始めたのが1993年。
私がインド旅行2回目にご住職に出会ったのが1994年。
()

今では立派な中・高等学校になっています。
滞在中のある朝、懐かしい学校へお寺の小坊主君の登校について行きました。
相変わらず大勢の朝礼風景

校内を案内してくださった先生は「タウザンド○○ムニャムニャ」と説明。
私の知る限り解散前2013年は800名ほどだったので、またまた増えているのだ。

一緒に登校したノマージ君の教室の前にて

お寺にいる小坊主君は3名。
地方からやってきて、修行しお手伝いをしながら中学校へ通学させてもらっているのです。
彼らは食事も自分たちで作っていました。

【さようなら ご住職】
長年の愛車。2度の転倒から体力を落としてゆかれた。

2010年テレビ東京系列「世界を変える100人の日本人」の一人として紹介されました。

「教育は一生の宝となる」が口癖でした。

中学と高校が落ち着いたころから、
貧しい子供たちを対象に無料の小学校が、お寺の中の教室で始まりました。

年齢はバラバラ。

今も続いていました。
この子達に幸あれと祈る

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緊急渡印・出国騒動

日本国内なら日程変更は簡単だが、海外はそうはいかない。
後ろ髪を引かれる思いで、バラナシ空港へ送って頂いた。
小坊主も来てくれて、手を重ね『Good Luck』
Sayonara!

エアインディア便22日バラナシ16:50発 デリー18:30着。
乗換え
エアインディア便22日デリー21:15発、成田23日08:00着
と段取り良いチケットだった。

ところが機体不良かシステムトラブルか?デリー行きは飛ばないだと。
オフィスに詰めかける中に日本人男性4人がおり、合流し数の力で担当者に談判するも
ラチが開かない。デリーのエアインディアへいってくれと。

結局バラナシ16:50発はなし。代替フライトも絶望。
当然デリー21:15発成田行きもない。

その後1名の男性も加わり、深夜まで彼らと話ながら提供された夕食を頂き、
23日明け方のやっとデリー空港に到着。

その後のフライトは各人様々なので、それぞれの道を歩み始めた。
私はエアインディアのオフィスで成田行きの対応を粘る。
この粘りは大切だ。引いたら負け。
代替フライトだけでなく、ホテル1室と朝食&昼食、空港間のタクシー送迎・・・を獲得
フライトは「JAL 22:20発 成田24日07:20着。
ちゃっかりJALのマイレージも付けたもんね。
しかも携帯電話に記録している会員番号の提示でね。ラッキー!

丸1日遅れたことになる。
ところがANAで成田へ向かう青年は、どうしてもエアインディア側がダメというのである。
スマホに記録しているe-チケットを見せてもNO。
がんこ親父め!と悪態ついても、
結局マイレージを貯めた特典チケットだったから、代替フライトは無理だったのだ。

私をエスコートしてくれた方だったので立ち去りがたくも
お別れした。
後で自前のチケットでホテルの斡旋もなく、帰国するとメールを頂いた。

彼らは学生ではなく一般社会人の若者でした。
食事をしながら又は時間待ちの椅子席で、
仕事の話やデリーの町でだまされた話、アメリカで起業した話など私は聞き役だったが
思わぬ異業種交流の場となりました。

インドが嫌いにならず、また来てくれるといいな。

  

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緊急渡印・お見舞い

寝たきりの病院では24時間付き添いが必要なため、お寺の小坊主4人が交代で常駐し世話をしていました。
バラナシに到着して2日後の夜、ご住職は退院してお寺の自室に戻られました。

小坊主たちに折り鶴を渡すと、彼らも見様見真似で古新聞紙で大きな鶴を折っていました。
すると細い針金とマッチの軸でぶら下げようと提案して来た。

ゆらゆら揺れる鶴を見つめるご住職

褥瘡がひどくて、確か1日おきに体の清拭と褥瘡の手当に看護士が来ていました。
眠っているときは呼吸に合わせたようにタンがからまり、辛そうでした。

話しかけるとうなづく程度となり、
間もなくタンのからまりがなくなり、
『ミズ』の要求も少なくなり
『さむいさむい』とうわごとのように囁かれるように。
足をさすると少し冷たくなってきていました。覚悟の時がきたな。

帰国までの2日間は、小坊主や留守番の人(日本語が分からない)がいない時に、
お里帰りの旅の話や、富士山と紅葉の写真を見てもらったり・・・・
唱歌ふるさとを出身地土浦バージョンで歌ったり、

『もう頑張らなくてもいいんですよ、私と一緒に土浦へ帰りましょ』

22日夕刻、バラナシを離れデリーへ向いました。

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緊急渡印・入国

緊急には予想外のトラブルがつきもの。

初体験の「アライバル ビザ Visa On Arraival」日本人旅行者のみ適用のサービス。
受付カウンターに担当者が来ない。
本日の申請者は4人。1番乗りの私。
30分は待っただろうか?
提出書類はパスした!写真2枚は必要なかった

支払いは2000ルピーや日本円やドルでもOKのはずだが、クレジットのみ。
そうか先日発表の高額紙幣入れ替え作戦の影響かな?
再度申請窓口へ戻り、支払いが証明されると初めてパスポートにスタンプ。

1ケ月間有効である。

手続きを終え、バゲッジを取りにターンテーブルに行くと見当たらない。
荷物預かり所に保管されていた。

教訓1.預け荷物タグは絶対紛失しないこと
教訓2.スタンプされたページを覚えておくこと。いつものビザとちがうので、ホテルや両替などで
パスポート提示を求められた時、彼らはそのページを見つけられず質問が飛んでくる。

到着時に空港で両替した時は、1万円分すべて100ルピー札(これは旧札です)でした。
ずいぶん並んで私の後ろで「終わり!」と宣言され、怒る旅行者続出。当然です。

教訓3.初心者の旅行者は、旧500ルピー紙幣をつかまされないよう注意してください。
町中の「Exchange」の看板には特に注意!
かといってデザインの違いは分かりにくいですが、500ルピーはピカピカの新札ですからね。

デリーで1泊して翌朝ローカルのバラナシ空港に着きました。
お寺の方と滞在中の日本人女性が迎えに来てくれていました。

早速入院中のご住職を訪ねましたが、見る影もなく絞んでおられました。

翌日、町中の銀行ATMには庶民が列をなし、1人1回新札の2000ルピー1枚のみ出金。
2000ルピーで買い物できる店はほとんどない、つまりおつりが出せないのです。